21日の日記:
今日は特に予定もなく夕方4時頃いつもどおり母と夕飯の買い物へ出た。
その帰り道、5時半頃だったと思う。気持ちの落ち込みがやってきた。でもいつも感じる孤独感より今日のは悲しみの方が強かったと思う。なんで私まだ生きてるんだろう・・・無性に死にたくなった。とにかく今生きている現状を認めたくなかった。ほんとはあの時死んでたはずなのに。なんで今こんなに辛い思いしながら生きてるんだろう。死にたいよ。死んで無になりたい。もう寂しさとか悲しみとか苦しみとかを感じたくないんだ。
私の中で希死念慮には2種類ある。
昨日のように悪魔君が出て来たときに現れる希死念慮と憂鬱でどうしょうもなく落ち込んだときに現れる希死念慮はあきらかにタイプが違う。
前者は苦しいから、悲しいから、辛いから、などの理由から死にたいわけじゃない。自殺をどこかイベント事のように考えていて、単純に過去2度未遂で終わらせてるから今度こそは成功させないと、という考えしかない。だからやり残した宿題をやる感覚に近い。私はあの時死んだはずなのに誤算が生じて助かってしまった→今度はもっと綿密に計画を立てて完璧にやり遂げようと。
そこに気持ちの落ち込みは全く無くむしろ自分が自殺に至るまでの過程を楽しんでいる。向精神薬の致死量を熟知し、実際に危険な薬を高額を出してまでも買い、練炭自殺の方法も調べ、いかに完璧に自殺を成功させるかについてのレポート作成までも行ってしまう。妙にエネルギッシュで行動的、頭も冴え渡りテンションも高めである。だから表現としては同じ「死にたい」でもその意味は「自殺を成功させたい」なのかもしれない。
一方、後者は悲しくて、寂しくて、苦しくて、どうしようもなく辛い、だから死んで楽になりたい、の「死にたい」である。一般的に万人に理解されるのはこっちだろう。この「死にたい」なら親も理解できると言う。
頭の中が悲しみ、孤独感、絶望感でいっぱいになり、涙は止まらないし、心が苦しくてどうしようもない、もうこんな辛いのは耐えられない、だから死にたい、死んで楽になりたい、と。でもその意味は「死にたい」というより「もっと楽に生きたい」の方が強い気がする。何故ならこの時の私は前者で述べたような行動を起こさないから。とにかく自殺を楽しむ感覚は無く、あるのは悲しみ、寂しさ、絶望感などマイナスの感情。だから気分は落ち込むし、涙は止まらないし、とにかく苦しい。だから頓服を飲む。なんとかこの辛さを緩和しようとするわけだ。要するに「死にたい」=「死にたいほど辛いから何とかしてくれ」っていう心の叫びなわけで。だから実際に行動に移さない場合が多い。というよりエネルギー不足で移せないのかも。
だから今日感じた「死にたい」は後者に当てはまる。
でも私に関してどちらにも言えることがある。それは死への恐怖が欠けてるってこと。これって未遂の後遺症か?と思うくらいとにかく死の恐怖を感じれない。だから自殺に抵抗を感じない。死ぬエネルギーさえあれば死ねちゃうのだ。それが悪魔君の企むものであろうが人間的な絶望感によるものであろうが。
普通の人は死への恐怖を持ってるからギリギリの所で思いとどまる可能性は高い。でも私にはそれが無い。親もそれがわかってるから私の希死念慮を問題視する。病院でなんとかしてもらおうとする。
私的には悪魔君が抱く希死念慮を病院で何とかしてもらおうとは思ってない。何故なら辛くて死にたい訳じゃないし、むしろ自殺=快楽って思ってるから。
でも絶望感から来る希死念慮は何とかしてもらいたい。何故なら苦しくて辛いから。
要するに辛くて苦しいのが嫌な訳で、ほんとは自分が死にたいのか生きたいのかはよくわからない。
ただ自殺をイベントと考えてる私がいる限り自殺企図は減らない気がする。
「苦しい辛いから死にたい」だけなら単純でいんだろうけどな。
私の自殺企図も摂食障害と同じように心の成長とともにその数を減らして行くものだといいのにな・・・。
どうしても使ってしまう「死にたい」って言葉。だけどそこに隠されてる意味は毎回違う。日本語って難しいな。
今日は特に予定もなく夕方4時頃いつもどおり母と夕飯の買い物へ出た。
その帰り道、5時半頃だったと思う。気持ちの落ち込みがやってきた。でもいつも感じる孤独感より今日のは悲しみの方が強かったと思う。なんで私まだ生きてるんだろう・・・無性に死にたくなった。とにかく今生きている現状を認めたくなかった。ほんとはあの時死んでたはずなのに。なんで今こんなに辛い思いしながら生きてるんだろう。死にたいよ。死んで無になりたい。もう寂しさとか悲しみとか苦しみとかを感じたくないんだ。
私の中で希死念慮には2種類ある。
昨日のように悪魔君が出て来たときに現れる希死念慮と憂鬱でどうしょうもなく落ち込んだときに現れる希死念慮はあきらかにタイプが違う。
前者は苦しいから、悲しいから、辛いから、などの理由から死にたいわけじゃない。自殺をどこかイベント事のように考えていて、単純に過去2度未遂で終わらせてるから今度こそは成功させないと、という考えしかない。だからやり残した宿題をやる感覚に近い。私はあの時死んだはずなのに誤算が生じて助かってしまった→今度はもっと綿密に計画を立てて完璧にやり遂げようと。
そこに気持ちの落ち込みは全く無くむしろ自分が自殺に至るまでの過程を楽しんでいる。向精神薬の致死量を熟知し、実際に危険な薬を高額を出してまでも買い、練炭自殺の方法も調べ、いかに完璧に自殺を成功させるかについてのレポート作成までも行ってしまう。妙にエネルギッシュで行動的、頭も冴え渡りテンションも高めである。だから表現としては同じ「死にたい」でもその意味は「自殺を成功させたい」なのかもしれない。
一方、後者は悲しくて、寂しくて、苦しくて、どうしようもなく辛い、だから死んで楽になりたい、の「死にたい」である。一般的に万人に理解されるのはこっちだろう。この「死にたい」なら親も理解できると言う。
頭の中が悲しみ、孤独感、絶望感でいっぱいになり、涙は止まらないし、心が苦しくてどうしようもない、もうこんな辛いのは耐えられない、だから死にたい、死んで楽になりたい、と。でもその意味は「死にたい」というより「もっと楽に生きたい」の方が強い気がする。何故ならこの時の私は前者で述べたような行動を起こさないから。とにかく自殺を楽しむ感覚は無く、あるのは悲しみ、寂しさ、絶望感などマイナスの感情。だから気分は落ち込むし、涙は止まらないし、とにかく苦しい。だから頓服を飲む。なんとかこの辛さを緩和しようとするわけだ。要するに「死にたい」=「死にたいほど辛いから何とかしてくれ」っていう心の叫びなわけで。だから実際に行動に移さない場合が多い。というよりエネルギー不足で移せないのかも。
だから今日感じた「死にたい」は後者に当てはまる。
でも私に関してどちらにも言えることがある。それは死への恐怖が欠けてるってこと。これって未遂の後遺症か?と思うくらいとにかく死の恐怖を感じれない。だから自殺に抵抗を感じない。死ぬエネルギーさえあれば死ねちゃうのだ。それが悪魔君の企むものであろうが人間的な絶望感によるものであろうが。
普通の人は死への恐怖を持ってるからギリギリの所で思いとどまる可能性は高い。でも私にはそれが無い。親もそれがわかってるから私の希死念慮を問題視する。病院でなんとかしてもらおうとする。
私的には悪魔君が抱く希死念慮を病院で何とかしてもらおうとは思ってない。何故なら辛くて死にたい訳じゃないし、むしろ自殺=快楽って思ってるから。
でも絶望感から来る希死念慮は何とかしてもらいたい。何故なら苦しくて辛いから。
要するに辛くて苦しいのが嫌な訳で、ほんとは自分が死にたいのか生きたいのかはよくわからない。
ただ自殺をイベントと考えてる私がいる限り自殺企図は減らない気がする。
「苦しい辛いから死にたい」だけなら単純でいんだろうけどな。
私の自殺企図も摂食障害と同じように心の成長とともにその数を減らして行くものだといいのにな・・・。
どうしても使ってしまう「死にたい」って言葉。だけどそこに隠されてる意味は毎回違う。日本語って難しいな。
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